最近のロードレースについておもう

ここしばらく、ファンの心に突き刺さるような悲しいニュースが続いている。頻発するドーピング疑惑に、何がなんだか自分の気持ちを整理しきれない自分がある。
こういった状況の中、たとえばファンを辞めてしまうような人もいるのではないかと思う。悲しいニュースの連続に対する回答は、ファンの数だけ存在するはずだ。
そんな中、ロードレースに注目されている人のブログの記事で、自分も共感できるというか、納得できるような考えを示されている方がいた。くまたろうさんの8/28の記事だ(http://blog.goo.ne.jp/kumataro2004/e/8a2c08067794f020ca3c5d6c42806731)。
今氾濫する悲しいニュースたちの正しさについて、あれこれ議論することは自分には出来ない。正しい語学力もなくニュースを拾い集めるほどバイタリティは無いし、仮に情報が大量に集まっても、それを材料にコトの真偽を自分が適正に判断できるとは思えない。つまり、自分は時間の経過とともに浮かび上がってくる新しいニュースを待つしかないと思っている。そんな中では、たとえばツールにおける有力選手排除のタイミングや判断が正しかったとかそうではないとか、そういうことについてなんやかんやいうことは難しい。
ここでくまたろうさんの記事を引用させていただくと、「UCIや主催者は“身内”の恥を晒してでもクリーンにしようとしている。そんな気高い業界なのだと誇りを持とう。」とある。ああ、こんな考え方もあるんだなあと妙にすとんと収まりがついたような気分になった。
悲しいニュースの連続の中にあって、ただ次のニュースをじっと待つことが、これまでの自分のスタンスだったのかもしれない。くまたろうさんの言葉を受けて思う。なんでこんなことになってしまったんだろう…と堂々巡りのように思いを巡らせるだけでなく、他のロードレースファンの意見や考えを聞きながら、自分なりの気持ちの整理をつけていけばいいのだろう、と。今頻発する悲しいニュースだって、もともとは様々な立場の人が、ロードレースを愛する現場の人が、それぞれの立場で一生懸命に考えて出した結論が伝わってきているものだ。その結論が正しいか、正しくないかはニュースを断片的に聞いているだけの自分には分からない。ただ、それらのニュースが耳にはいるととにかく悲しいだけで心のモヤモヤがなくならなかったのだ。でも、今現在混乱の中にあるロードレースのファンである自分がロードレース界と向き合うとき、くまたろうさんの言葉は一つのヒントになる。この言葉を自分なりに消化すれば、ロードレースを愛する自分なら、時間をかけて一連のニュースとも向き合えると思うし、ファンを続けていく自信がある。

そもそも自分がロードレースのファンになったのは、何でだったんだろう。そういったことにも気持ちが飛ぶ。
そう言えば自分はもともとサッカーファンだった。今でもサッカーのユニフォームがタンスにしまわれている。たぶん40枚位くらいあるだろう。そんな自分がロードレースの魅力に触れたのは、02年ジャパンカップだった。フレンドリーな選手たち、日常生活では見られないようなスピード感あふれる集団の通過。観戦に行くたび、新しい発見がある。道ばたには笑顔があふれ、事前の催しレースやファン交流ランで頑張る一般の人にまで地元の人の声援が飛ぶ。自宅の前に腰掛け、選手たちが通り過ぎる様子を眺めているおばあさんに対して、選手たちから元気に挨拶が飛ぶ。そういう様子を見つけるたび、自分がロードレースに出会えて良かったと心の底から思えたものだ。そういった経験が、いつしかサッカーファンというよりロードレースファンの自分を作っていった。
ジロでも同じだった。06ジロ最終日、ミラノにあふれた祝福の波は、とにかくロードレースを愛する地元の人たちの暖かい気持ちで出来上がったものだった。自分のように遠国からはるばる観戦にくるような人もいれば、自宅マンションの窓から何となく見つめている人もいる。レース会場脇の大きな公園では、ジロが来たことなど気にしないミラノ市民たちが、ドッグランで愛犬たちの交流を楽しんでいたり、一方ではipodを聞きながらマラソンをする人がいたり。日常生活の中にロードレースがとけ込んでいる様子がそこかしこに見られたことがただただ嬉しかった。
実際にプロトンがやって来たときも、万雷の拍手に包まれる選手たちの誇らしさに感動したり、ビデオを撮るのに一生懸命な旦那となんとなく連れてこられた感の漂う奥さんがレースの最中に言い合いをしてたり。レースが進むにつれてエキサイトしていく観衆が、集団の移動とともにダッシュする様子がちょっと怖かったり(といいつつもすぐに馴染んだ自分は誰よりもダッシュしていた自信があるが 笑)。このレースで引退するブラマーティが、レース後周りに集まるファンにシャンパンを振る舞ったり。ジロの周辺にはお祭りムードもあったけど、なにより「日常」を感じたものだ。
それがとても嬉しかった。


付け加えると、そんな日常感ただよう幸福なジロの勝者、バッソについて、まだ捜査が続いていることと思うが、自分は彼がドーピングに関わったかどうか、については当然分からない。ただ、もし間違いを犯していたとしたら、それを反省して真摯に競技に取り組む姿勢を取り戻すようにしてもらいたいと思う。沿道にあふれる子供たちがバッソに送った声援を、裏切るような結果になるのはとても悲しい。だから、もし間違いを犯していたのなら、ジロで大きな声援を送っていた子供たちのためにも、未来のロードレース界のヒーローたちのためにも、きちんと反省してほしい。もちろん、今の自分は彼はドーピングしていないと信じている。信じつつ、どういう結論が出るのか、待ちたいと思う。


話がそれたが、とにかくレースに触れるたび、新しい感情が芽生えるのだ。日本ではロードレースというとどこか非日常のような感じがするが、そのような中でも前述のような沿道で観戦する地元民の存在が日常生活とのつながりを感じさせてくれたし、ジロは日常との溶け合い方がホント本場ならではだった。日常と非日常。そのうまい溶け具合が自分に沢山の感動や楽しさを提供してくれる。その連続が、ロードレースファンとしての自分を作ったのだ。

自分がロードレースファンになったきっかけを思い出せば、つらいニュースの連続の中でもファンを続けていくのになんら迷いはない。これからも様々な人の意見に耳を傾けつつ、自分なりに一連のニュースを消化していきたい。その都度考え方は変わるだろうし、言っていることが気づいたら180度変わっているじゃんなんてことがあるかもしれない。それでも、自分なりの意見を持てたらそれで良いと思う。

とても長い文章になってしまったが、いろいろ思い出しているうちに、ロードレースを好きになって良かったと心の底から思えた。文章は稚拙で分かりにくいだろうけど、書いて良かったんだろうな。