心の耐久力

自分はもともと我慢強い、という自負があった。自己研鑽のため勉強に励む、といったような個人に関するなにがしかについては別だが、大なり小なりコミュニティーが作られ、その中で自分の行いが関係をもった人に対して連鎖的に反応する、といった状況になるととりあえず責任感という言葉を想起し何かいやなことがあってもまず自分は耐える、というところからはじめて見るのが常だった。

我慢強いを自負していた自分が、そもそもそんな自負には意味があまり無く、つらいときは心が決壊することが往々にしてあると自覚できるきっかけとなった出来事から、まる3年。まだ3年しかたっていないのか、と意外に思う。考え方・価値観が大きく変わって、自分でこころの重しをすこしずつ取ろうと頑張ってきた3年だったと思う。自分一人ではここまでこれなかったことは間違いない。自分の価値観に影響を与えてくれた人、映画や音楽のような文化、感動を与えてくれたスポーツ。。。いろいろなものに感謝をしなければならない。

自分の心の耐久力がこれから増すようなことは無いと思う。自分なりにボーダーラインを見つけて、その時々の調子に合わせてそのラインを超えないように注意するしかないと思う。


先日来、「怒り」をどうコントロールするかについて書き記してきた。頂いたアドバイスを参考にしたり、書くことで自分なりに気持ちの整理をつけたり、出来ることをやって来た。今も、継続しているつもり。
継続している中で、今日、分かったことがある。やっぱり、自分のスタンスを全く崩さず、自身の考えを並び立てる人には魅力を感じないし、生産性を見いだせない。受け取る相手の中に「怒り」や「悔しさ」が生まれたとして、その先になにが見いだせるか。それをバネとして利用できる環境があれば、なにか新しいモノが生まれるエネルギーをつくるきかっけになりうるやり方かもしれない。けど、すでに袋小路に追い込まれている、もしくは孤独感の中で闘っている人に対しても同様に、自身の考え方を並び立てるだけでは、受け取る側は活路を見いだすのは難しい。自身の考えを述べるとき、その発言にどの程度影響力があるかを理解しないまま、その発言がどれだけ相手に対して鋭利なものであるかを理解しないまま、発し続けることは本当に哀しいことだ。


価値観は人の数だけあり、相手の価値観に怒りを覚えたり悲しみを覚えたり、はたまたやるせなさを覚えたとしても、自身の価値観とその価値観をどのような距離感で保つか、については人それぞれだと思う。ただ、折れそうな心を抱えて頑張っている人に対して、自分の価値観をそのままぶつけるような無神経な人間にはなりたくない。何も知らない人には自分の言葉で知識や経験を分けてあげればいいし、自分の言葉があるひとに影響を及ぼすことをおそれるなら、しばらく距離を保ったり、ことあるごとに自分が納得できるやり方で周りの人と向き合いたいと思う。どんなときも自分のスタンスを崩さない人を世間的には格好いいというのかもしれないけれど、それが全てだとは思いたくない。